
1985年の初冬、中学3年の時に父が病気で死にました。肝臓の病気でした。
僕は高校受験を控えていましたが、「そんなの関係ないよ」という感じに家族の死はひっそりとやってきました。
誰もが感じると思いますが、身内の死というものは一つの転換点のような気がします。
いろんなものが変わって行きます。
今まで見ていた景色や、友だち関係とかも。
そんな中、気がつくと僕のまわりにいてる友達は、片親の人たちが多かった気がします。
「類は友を呼ぶ」とはこんな感じなのでしょうか。
それとも
市営団地だから片親が多いのか、片親だから市営団地なのかはわからないですが、大人になって初めてその状況が、それなりにわかってきたような気がします。
まるで、「卵が先か、ニワトリが先か?」のように考えさせられました(苦笑い)
というわけで、なにかと大変で悲惨でしたが、それ以上に大変で悲惨な人なんて世の中にはたくさんいることを僕は知っていましたし、
くよくよしたって仕方がないと思い、それなりに毎日を楽しく過ごすようにしました。
その当時、父が死んで、けっこう大変な状況でありながらも、人って思ったよりも笑えたりもするんです。
親父が死んだその日の夜に、当時放送していた「オレたち、ひょうきん族」なんか観て、自分が大笑いできたことを今でも強く印象に残ってます。
それから4年後ぐらいに、花屋さんのアルバイト面接に向かいます。
一冊のアルバイト情報誌。でもその「フロム・エー」は半年前に発売されたものでした。友だちの家で無造作にホコリが被っていたものです。むっちゃ適当な感じで、もう募集はしてないだろう・・・。と思いきや、電話をすると面接に来いというではありませんか。
ありがたいことに、その当時の花屋の店長が採用してくれました。
月日は流れ・・・。
26年後ぐらいの今日に、この記事を書いています。
読んでいただいている人がいてくれることを想像すると、適当な感じでバイトの面接を受けたことが、結果的にはよかったな。と思ってしまいます。
お客さんと楽しく会話ができて、しょっちゅう「ありがとう」という言葉もいただいています。そんな職業ってそんなにありませんよね。ほんと「うれしい」の一言です。
ということで、なんだかよくわからない僕の生い立ちとなりました。いろいろ細かいところまで、読んでいただいてありがとうございます。あなたと難波で会える日をたのしみにしております。
店長 藤井オサム